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【連載小説】グリム・リーパーによろしく

【連載小説】グリム・リーパーによろしく



『デビュー前の“作家の卵”の方々の作品を先取りして、日々の読書を楽しもう』

をコンセプトに、様々なジャンルの小説の冒頭5話を掲載しています!

面白い作品や気に入った作家を見つけて、作家デビューまで応援しよう!

本ページの最後に作家様のリンクを設けてあるので、足を運んでみてください。


連載小説の第6弾は...

『グリム・リーパーによろしく』 長谷川


 今回の連載作品は、全12場面からなる『短編小説』なので、読書の時間がなかなか作れない人にとっても読みやすい作品になっています!

本ページでは、冒頭5場面を月~金曜にかけて1場面ずつ更新していきます!



『グリム・リーパーによろしく』で、一日一読の読書生活を始めてみては??



≪目次≫

第1話

第2話

第3話

第4話

第5話





第1話


 私は困っていた。

 既に隅々まで読み終えてしまった新聞をテーブルに置き、ため息と共に懐へ手を入れる。冠を戴いた盾と月桂樹が刻印された懐中時計を開くと、私がこのカフェに来てから既に二時間が経過していることを二本の針が教えてくれた。

 どんなに目を皿のようにして探しても、これ以上目の前の新聞から未読の記事を探し出すことは難しい。何せ私は今朝から三回もこの新聞を読んでいるのだ。普段なら間違いなく読み飛ばしているであろう取るに足らない記事にまで、一言一句目を通した。しかし事態は動かない。


 私は沸々と込み上げてくる苛立ちを静めるため、本日四杯目になるアッサムティーへ手を伸ばした。

 が、なかなか品のいい金縁のカップを持ち上げたところでその軽さに気づく。つと目を落とせば中身は空だ。自分でも気づかないうちにすっかり飲み干していたらしい。


 そこはロンドンの片隅にある小さなカフェ。私は毎朝このカフェに顔を出し、新聞を片手にモーニングティーを飲むのが日課だった。

 だがそれは何も、この店で出されるアッサムティーが格段にうまいからとか、ここの店主が焼くスコーンを特別気に入っているからとか、そんなことが理由ではない。毎朝新聞を持参してやってくるのは出勤前の一杯に見せかけるためのカモフラージュであって、本当の目的は別にあるのだ。


 その〝目的〟をさっさと片づけたい一心で、私は奥にある窓際の席を一瞥する。そこは二つの椅子がテーブルを挟んで向かい合わせに置かれただけの、ごく小さな席だった。

 その席に先程から一人の少女が座っている。まったく見覚えのない、明るい金色の髪を肩まで垂らした十歳くらいの少女だ。

 あの少女は先程からあそこで何をしているのだろう?

 見たところただ座って手持ち無沙汰にしているだけのように思えるのだが、彼女はああしてもう二時間もあの席に居座っているのだ。

 そう、二時間も一人きりで!


 私の中の苛立ちはいよいよピークに達しようとしていた。このままでは私が必死に貼りつけている紳士の仮面が剥がれ落ちるのも時間の問題だ。

 何故なら私の目的はあの席にある。私の真の日課はあの席のテーブルの裏に仕込まれたとある人物からの手紙を受け取ることなのだ。それはいつも手紙とも呼べない、走り書きのような粗末なものだが、私にとっては非常に重要な意味を持つ。だがそれもあの少女がいたのでは回収することができない。


 私はいよいよ抑えがたい衝動を覚えて、もう何度目になるか分からないため息をついた。

 何なら五杯目の紅茶を注文しようかとも思ったが、これ以上は我慢の限界だ。ようやく決心のついた私は折りたたんだ新聞を小脇に挟み、テーブルに立てかけていた黒塗りのステッキを手に取って決然と席を立つ。


「失礼、お嬢さん」


 できれば他人との不必要な接触は避けたかったのだが――そんな不満を垂れるもう一人の自分を思考の暗がりへと追いやって、私は黒の山高帽を被りながらついに少女へ声をかけた。

 子供特有の大きな両目が、途端に私を見上げてくる。瞳の色は満月の夜を思わせる深いブルー。

 しかしそこに星空を思わせる輝きはなく、あるのは突然声をかけてきた男に対する不審だけだった。

 それなりに良い家の子女なのだろうか。身なりは整い、目の端にもしっかりとした教育を受けた者のみが見せる聡明さが滲み出ている。


「一つお尋ねしても?」

「何かしら、サー?」


 返ってきたのは、予想以上に大人びた受け答えだった。こちらをはかるように小首を傾げた少女の肩から、緩やかに波打つ長髪がさらりと零れ落ちる。

 私は先程からこの少女に対して渦巻いている疑問と苛立ちとを一旦収め、改めてまじまじとその姿を観察した。

 大きな深紅のリボンがついたケープに品の良いショートドレス。傍らには山の浅い麦わら帽が置かれていて、これがまた控えめながらも上品なつくりをしている。


 気になるのは足元に置かれたトランクだ。その大きさは華奢な少女の体つきにはどう見ても不釣り合いに思える。

 初めは旅行者かとも思ったのだが、それにしては二時間以上も一人でカフェにいるというのは妙だ。このくらいの歳の少女――それも良家の子女ともなれば、付き人くらいいて然るべきではないか。


「実は、私が今朝この店に来てからかれこれ二時間が経過しているのだがね。君はその前から一人でこの店にいる。そうだろう?」

「ええ、そうよ。人を待っているの」


 少女はやはりはきはきと、才気走った喋り方をした。

 それが何となくお高くとまっているような、小生意気そうな印象を与えたが、私は努めて冷静であるよう自分に言い聞かせながら、「なるほど」と軽く咳払いをする。


「それは奇遇だ。実を言うと、私もここで人を待っていてね。だが一つ問題が発生している」

「というと?」

「私は彼と、君が座っているその席で待ち合わせる決まりになっているのだ。だからもし差し支えなければ、その席を私に譲ってもらいたいのだが」

「まあ」


 と、それを聞いて少女は目を丸くした。

 私は何も、そこまで驚かれるようなことを言ったつもりはないのだが――と、その反応にこちらの方がかえって驚く。いや、あるいは今のやりとりの中に何か失言があったのか?

 もしそうならば速やかに取り繕わねばならない。私は慌てて直前の自分の言葉を反芻した。

 けれども少女はそんな私の心中などお構いなしに身を乗り出し、

「貴方、ヘンリー・ジェルキンス?」


 と、突然私の名前を呼んだ。

 瞬間、私の中で間欠泉のように湧き上がったのは驚きより警戒だ。

 何故なら、なるほど、確かに私はヘンリー・ジェルキンスだが、今はその名を一身上の都合で封印している。既に滅んだその家名を知る者は、ブリテン広しと言えど両手の指で数えられるほどしかいない。

 ゆえに私は少女の問いに「そうだ」とも「違う」とも答えなかった。

 ただ警戒の刃を瞳の端に忍ばせて、

「どこでその名前を?」


 と尋ねただけだ。

 すると少女は夜空に私を映して答えた。


「わたくしに貴方を紹介して下さった方から聞いたの。その方の名前はわたくしも存じ上げないのだけれど」

「紹介?」

「ええ、そうよ。その方がここで待っていれば、貴方はきっと現れると教えてくれたわ。そして確かに貴方は来た」

「待ちたまえ。私は自分がヘンリー・ジェルキンスだとは一言も言っていないが?」

「あら、違うの?」


 少女の夜を落胆の影がよぎった。そんな顔をされてしまうと、こちらとしても居心地が悪い。


「……では、仮に私がヘンリー・ジェルキンスだったとして、君は私に何用かね?」

「決まっているわ。わたくし、貴方に依頼があるの」

「それは私が何者か分かった上で言っているのか?」

「ええ、もちろんよ。――貴方、殺し屋なんでしょう?」


 その問いはまったく声量を落とさず、むしろ堂々と胸を張って投げかけられた。これにはさしもの私も固まり、次いで自らの背後を顧みる。

 幸いにしてまだ昼時には少し早い店内には私と少女、そしてカウンターの向こうに店主が一人いるだけだった。その店主は私と目が合うとすぐに視線を逸らしたが――まあいい。

 私は改めて少女へ向き直った。そしてここ数年使っていなかった笑顔という名の盾を装備する――それはあまりにも長い間しまい込んでいたせいで埃を被り、すっかり不恰好になってしまっていたが。


「なかなか面白い冗談だ。君のご両親はアメリカのお生まれかな、お嬢さん?」

「いいえ。れっきとしたイングランド人よ、サー」

「これは失礼。ちなみに君のお名前は?」

「メアリー・ウォールデン」

「ウォールデン?」


 私はまたしても意表を衝かれた。

 ウォールデン。聞き覚えがある。

 その名前は、確か――。


「もう一度言うわ。貴方に依頼があるの、ミスター・ジェルキンス」


 少女の口調に迷いはなかった。

 彼女は利発そうな目元にナイフの鋭さを宿しながら、その切っ先を私の喉にぴたりと当てて、言う。


「ここにある、わたくしの全財産を貴方に捧げます。だからお願い。――『死神』を殺してちょうだい」



第2話


 その部屋からは、ロンドン中心部を流れるテムズ川が一望できた。

 煙突から黒い煙を上げた蒸気船が、汽笛を鳴らしながらゆったりと流れを下っていく。あれらはここより下流にある工業地帯へ行く船だ。

 少し遠くへ目をやれば、そこには産業革命の粋を集めて造られつつあるタワーブリッジの雄姿が見える。そうした景色を「革命前にはまったく考えられなかった」と大人たちは言うけれど、生まれたときには既に蒸気船や鉄道といった存在が当たり前になっていたわたくしには、特にこれといった感慨はなかった。


 けれどもそんなわたくしでも意外に思ったのは、その部屋の小綺麗さだ。

 外観からしてそこそこに上等な川沿いのアパート。窓からの眺めは良く、ダマスク柄の壁紙は新品同然。一階には玄関とダイニング、キッチン、パントリーがあり、二階には賃借人の寝室と書斎らしき部屋が一つずつ――。


 それが殺し屋、ヘンリー・ジェルキンス氏の邸宅だ。


「なかなかいい家ね」


 と、その二階の窓から身を乗り出し、曇天に沈むロンドンの街並みを一望したわたくしは、傍にいるこの家の主人に素直で率直な感想を述べた。

 書斎の隅で一人掛けのソファに身を委ねたジェルキンス氏は、どこか浮かない顔でパイプに火を入れている。せっかくわたくしが良い趣味だと褒めて差し上げたのに、何もない壁の一点を見つめたその横顔は不満げで、たゆたう紫煙もどこか気怠そうだ。


「わたくし、殺し屋ってもっと野蛮で不衛生な暮らしをしているものだと思っていたわ」

「……これでも一応、表向きは売れっ子作家ということになっているのでね。だがこの部屋はどうにも家賃が高くて困る」

「殺し屋って儲からないの?」

「まともな職業ではないからな」

「なら、どうしてそんな職業に?」

「メアリー。蟻の巣をほじくり返して遊ぶのが許されるのは七歳までだ。君は立派なレディに見えるが?」


 そう言ってじろりとこちらを一瞥してきた殺し屋に、わたくしは思わず「まあ」と腹立ちを覚えた。

 要するに彼は〝詮索するな〟と言いたいのだ。けれども世の中には言い方というものがある。


 まったく失礼な言い草だった。彼はわたくしを田舎の子供か何かだと思っているのかしら?

 仮にも良家の子女だったわたくしが蟻の巣を掘り返して遊ぶだなんて、そんなはしたない真似をするはずがないのに。


「そう言う貴方はとても立派な紳士ね、ミスター・ジェルキンス。ブルジョアとお知り合いになれて光栄だわ」

「それはどうも」


 わたくしが返した精一杯の皮肉を、ジェルキンス氏は無感動に受け流した。わたくしはそれがますます腹立たしくて、ツンと再び窓の外へと視線を投げる。


 やはり殺し屋などに心を許しては駄目だ。わたくしは小鳥のような自らの胸にそう言い聞かせ、対岸に見える石造りの塔をじっと睨んだ。

 ジェルキンス氏は、そう、殺し屋にしては見た目も物腰もとても紳士然としている。わたくしは殺し屋と言ったらみんなあのアメリカの大悪党ジェシー・ジェイムズのようなものだと思っていたのだけれど、実際に対面したジェルキンス氏は身なりもきちんとしていて粗野な印象はほとんどない。


 ただ黙っているとひどく気難しそうに見える横顔以外は、整えられた口髭も、撫でつけられた金茶色の髪も、すべてが我が国の紳士と呼んで差し支えないように見えた。

 首元を飾っているネクタイは彼の理性を証明し、さりげない所作にも洗練されたものを感じる。


 けれどやはり殺し屋は殺し屋だ。彼とてまた法と社会に背を向けて薄暗い道を歩いている人物には変わりない。

 その証拠にジェルキンス氏は初対面のわたくしにさえ、周囲に対して固く心を閉ざしているのが分かった。

 年齢は三十がらみと思しいのに、呆れるくらい頑迷だ。わたくしの方が譲歩して良好な関係を築こうとしてみせても、彼の方はそっぽを向いてまるで応えようとしない。


 ――まったく子供だわ。わたくしは憂いのため息をつく。


 果たしてこの人物に『死神殺し』なんて大役が本当に務まるのかしら?


「――ところで、もう一度話を整理させてもらいたいのだが」


 と、ときに突然真横から聞こえた声に、わたくしはびくりと小さく跳ねた。

 驚いて振り向けば、そこにはいつの間にかくだんのジェントルマンが立っていて、すまし顔で紅茶を差し出してくる。――まるで足音も気配もなかった。わたくしがテムズ川の対岸へ意識の翼を飛ばすまでは、確かにソファでパイプを吹かしていたはずなのに。


「アッサムはお嫌いで?」

「……いいえ、いただくわ、サー」


 わたくしの胸の小箱にしまわれた心臓は、まるでゴーストにでも出くわしたかのように怯えている。けれども努めて平静を装い、わたくしは紳士の手からソーサーごとティーカップを受け取った。

 そうしてカップから立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込み、跳ね回る鼓動をどうにか静める。……なんて意地の悪い人。わたくしが実力を疑っていると勘づいて、わざわざおどかしに来るなんて。


「メアリー。まずは君の素性についての確認だが、君は半年前に亡くなったウォールデン男爵のご息女で兄弟はなし。男爵の爵位と遺産は叔父のブレンドン氏の手に渡り、今や君は身寄りのない根なし草――そうだね?」


 そんなわたくしの心中に見てみぬふりを決め込んで、ジェルキンス氏は一方的に話し始めた。

 その手には彼の分のティーカップ。白い湯気の立つそれを時折口へ運びつつ、ジェルキンス氏は意味もなく書斎を歩き回る。今度はわざとらしく、黒い革靴の底でしきりと音を立てながら。


「君のご両親の名は私も知っている。半年前の新聞で読んだ。事件については――お気の毒にと言う他ないが」

「ありがとう、ミスター・ジェルキンス。だけどあの件について、殺し屋に同情される筋合いはないわ」

「それは失礼。だが同事件について、私が逆恨みされる筋合いもない。君の両親を殺したのは『死神』、そう呼ばれている殺し屋だ。そして私は、アレを同業者だとは認めていない」

「……」

「『死神』はただの殺人狂だ。これまでの殺しの手口を見ても、とてもまともな人間とは思えない。それでいて名前はおろか、一切の素性が謎に包まれた神出鬼没の殺戮者――それが、君が私に殺せと言った相手のすべてだ」


 つまり〝同業〟のジェルキンス氏でさえも『死神』のことはそれ以上知らない。彼は言外にそう言っているのだわ、とわたくしは思った。

 けれどそれについてはわたくしも初めから期待していない。近年巷を騒がせているその殺し屋の素性については、ロンドン警察庁スコットランド・ヤードさえ何一つ掴めていないともっぱらの噂だ。

 それでもわたくしは、わたくしの目の前から一瞬にしてすべてを奪い去っていったあの悪魔を野放しになどしておけなかった。


 わたくしは今でも覚えている。

 半年前のあの晩の恐怖を。あの晩の悲鳴を。あの晩に降った血の雨を――。


「正直なところ、今の状況では『死神』を見つけ出して息の根を止めるというのは神の御業にも等しい。そもそもあのスペインの暴れ牛のような男を、私一人の手で葬れというのが土台無理な話だ。だのに何故情報屋は私のもとへ君を寄越した?」

「知らないわ。わたくしはただそうしろと言われたからそれに従ったのよ。『死神』を葬ることができる男がこの国にいるとしたら、それは貴方だけだからと」

「ほう。私があの情報屋にそこまで買い被られていたとは知らなかった。あの男にとって私は体よく使い捨てにできる手駒に過ぎないと思っていたのだがな」

「ミスター。残念だけれど、わたくし、貴方とその情報屋の関係には一切興味がないの。わたくしが知りたいのはただ一つ、貴方がこの依頼を受けて下さるのか下さらないのか、それだけよ」

「では、お断り申し上げると言ったら?」

「今すぐここから身を投げて死にます」


 一抹の迷いもなく、わたくしは白い窓辺に寄り添ってきっぱりとそう言った。すると彼は珍しいダークグリーンの瞳を見開き、虚を衝かれたような顔をする。

 けれどわたくしは本気だった。殺されたお父様とお母様の無念――それを晴らす望みが今ここで断たれると言うのなら、わたくしにはもう生きている意味がない。屋敷も遺産もすべてあの強欲なブレンドン叔父様に奪われ、今のわたくしには帰る場所すらも残されてはいないのだから。


「おい、待て。それはいささか早計すぎはしないか?」

「いいえ。それこそがわたくしに残された最後の道です。どのみちわたくしにはもう行くあてなどない。ならば人より早く神の御許へ行き、この不条理な世の中に一日も早く最後の審判を下して下さるよう、かしずいてお願いする他ありません」

「君は自ら命を断った人間が神の御許へ行けると思っているのかね?」

「主に慈悲があるのなら」


 わたくしはやはりきっぱりと言った。途端にジェルキンス氏は深いため息をつき、ほつれた前髪を呆れたように掻き上げる。


「まったくあの情報屋め、厄介な客を送りつけてくれた……」

「何かおっしゃいまして?」

「分かった、依頼を受ける。そう言ったんだ。だからその窓から身を投げて厄介な騒ぎを起こすのはやめてくれ。ちなみに情報屋は、私が依頼を果たすまで君をここに置くようにと、そう言ったんだな?」

「ええ、そうよ。貴方がそれを拒んだら、この手紙を見せるようにと」


 わたくしはそう言って、ケープの裏ポケットに大切に収い込んでいたそれを、ついにジェルキンス氏へと差し出した。

 彼はひどく怪訝そうな顔でそれを受け取ると、まるで危険な爆弾でも処理しているような手つきで封を開ける。

 そうして中身を確認するや、彼はみるみる眉を寄せ、小声で下品な言葉を吐いた。

 それから封筒ごとビリビリと手紙を破り、気が済むまで細切れにすると、あとはそれを屑かごの底に叩きつけて荒い息をつく。


「……分かった。君に協力しよう」


 こうして、わたくしとジェルキンス氏の奇妙な生活は始まった。



第3話


 パキッといい音を立てて、黒茶色の板が折れた。

 それと同時にほどよい甘味と苦味が口に広がる。少しだけ粘つくような独特の舌触り。

 けれどもそれはほどなく溶けて、口の中に愛しい女の残り香のような、ほろ苦い香りを残していった。

 その残り香まで存分に味わったところで、もう一度パキッ。今度はそれを強めのブランデーで飲み下す。そうすると脳髄がビリビリ痺れて、俺は思わず恍惚とした。


 ああ、やっぱコレだよ、コレ。

 抑圧されるだけされたあとの最高のゼイタク。


 何ならこのまま一緒に溶けてなくなったっていい。それくらい幸福な時間だ。

 俺はそこが薄汚い場末の酒場だということも忘れて、今日もチョコレートを噛み砕く。


「ウフフ……お兄さんったら、さっきからずっとチョコレートに夢中ね。まるで小さな子供みたい」

「アー、キミたち知らねぇの? チョコレートっていうのはさァ、一昔前まではお貴族サマの食いモンだったんだぜェ。ガキが図に乗ってゼータクするようになったのはここ最近さ。それにコレは俺にとって大事なご褒美なの」

「ご褒美?」

「そ。俺、チョコレート中毒だからさァ。コイツがないと生きていけねェの。ある意味麻薬みたいなモン?」

「アハハ、何それ? やっぱり子供みたい。ねえ、でも、そんなにオイシイならアタシにも一口くださらない?」

「えー? キミも食べたいのォ? どーしよっかなァ」


 なんて笑って言いながら、手の中のイーティングチョコレートをヒラヒラさせる。俺様の甘いフェイスと焦らしプレイに、両脇のアバズレどもはメロメロだ。


 そこはソーホーの外れにあるオンボロ酒場。細くて暗い路地の先、人目を憚るように佇んだ入り口から地下へ下りた先にあるその酒場は、今日も下品なお客でいっぱいだった。

 何せここは高級娼館が並ぶ一角からちょいと外れた〝あぶれ者〟が集う場所だ。やってくるのは金もなく、地位もない、安酒に溺れたい連中ばかり。


 俺はそんな連中の陽気で下卑た笑いを聞きながら、どこぞの娼館から客寄せに来たアバズレどもとカウンターで戯れていた。

 正直、顔はどっちも好みじゃない。化粧はケバいし、いかにも下級娼館のオンナって感じで品もない。

 だが酔っ払い特有の中身のない会話は暇潰しにはもってこいだ。コートの胸元をまさぐって懐中時計を取り出せば、時刻は既に深夜十二時を回っている。


 ――そろそろだな。


 学のないオンナどものおかげで、とりあえず退屈はせずに済んだ。


「――ああ、これはボス、いらっしゃいませ」


 そのときカウンターの向こうでグラスを磨いていたバーテンが、突然畏まった声を上げる。

 その視線は俺の背後に向いていた。途端に酒場の空気が変わり、奥の席で羽目を外していたヤツらもサッとその場に立ち上がる。

 被りっぱなしだった帽子を外して敬意を表するヤツ、いかにもゴマすりな愛想笑いを浮かべるヤツ、縮こまって床とにらめっこするヤツ――。

 なるほど、どうやら俺の真後ろから現れたその男は、この辺じゃそれだけ顔が通った人物らしい。


「おう、スコット。いつものやつを頼む」

「はい、それはもう、すぐにご用意させていただきます」


 一際ドスのきいた声が響いて、バーテンの表情が引き攣る。どうやら本人はそれで笑っているつもりのようだが、その顔はどう見ても顔面麻痺を起こしたサルだ。

 俺がグラスを傾けながらそんなことを思っている間にも、ドラ声の主はのしのしとゾウのような足音を立てて奥へと向かった。


 その身長、およそ七フィート。北欧のおとぎ話に出てくる化け物トロールのような背中にドワーフのツラ。

 後ろには取り巻きと思しい男が二人付き添っていて、どちらもトロールと並ぶと小人のようだ。

 ただし顔は醜い小悪魔ゴブリン。間違っても家憑き妖精ブラウニーのような愛らしさはない。


「……あの人、このあたりの裏稼業を仕切ってる元締めさんよ」

「へえ」


 と、ときに耳打ちしてきたオンナの囁きを、俺は適当に受け流した。そんなの知ってるよーんと言わなかったのは、ワケ知り顔で畏まっているオンナの態度が面白かったからだ。

 そこにはもう、目の前のイイ男を口説き落とそうとしていたアバズレ娼婦の姿はない。いるのは首なし騎士デュラハンの伝説に怯える少女のような、青い顔をした淑女だけ。


 だがコイツは好都合だ。まとわりついてくるオンナを引き剥がす手間が省けた。

 俺は最後にもう一度パキッとイーティングチョコレートの端を折ると、残りはグラスに立てかけて、代わりに飲みさしの酒瓶を手に取り立ち上がる。


「ちょいと失礼」


 紳士ぶって席を離れ、そのまま俺はまっすぐに酒場の奥へと足を進めた。

 爪先が向く先にはもちろんトロールがいる。すると向こうも悠然と歩み寄ってくる俺に気がついたのだろう、冬眠明けのグリズリーみたいなを注いできた。


「どーも、親分さん。ちょいとご挨拶してもよろしいですかァ?」


 俺はそんなトロールの警戒を解くべく、酒瓶をヒラヒラさせて声をかける。けれども空腹なグリズリーは、早速目の前に現れた獲物に牙を剥いた。


「誰だ、てめえは?」

「いやァ、名乗るほどのモンじゃあないんですがね? アタクシ、巷じゃこう呼ばれております――〝死神〟と」


 そう言って、俺がニヤリと笑った瞬間だった。

 石造りの店内に銃声が轟く。途端に甲高いオンナの悲鳴が夜をつんざき、周りにいた男たちもワッと浮き足立って逃げ出した。

 それとほぼ時を同じくして、足元で安いブランデーの瓶が砕ける――だって両手で銃を抜かざるを得なかったから。

 俺の右手と左手には今やウェブリーMk.Iが握られ、その銃口からは細い硝煙がゆらゆらと立ち上っている。


「あーあ、もったいね」


 と、俺は両手の銃はそのままに、ぶちまけられたブランデーを見てほんの少し落胆した。

 けれどもそこから顔を上げれば、目の前では毛むくじゃらの大男が座り込んで放心している。その左右には頭から血を噴いたゴブリンが二匹。もちろんどちらも動かない。

 そして生意気にもゴブリンどもは、その手にアメリカ製のボルカニック・ピストルを握っていた。

 何ならここで南北戦争でもおっぱじめるつもりだったのか? 俺は呆れて口角を吊り上げる。


「アー、コイツは失礼。まずは自己紹介をと思ったんだケド、そちらサンがいきなり銃を抜いたりするから殺しちゃった。できればもう少し穏便にご挨拶したかったんだけどねェ」

「ま……待て、落ち着け。おれは銃を持っていない、今のはこいつらが勝手にやったことだ。だから頼む、銃を下ろせ」


 取り巻きを殺されたトロールは必死だった。しっかり左胸を膨らませながら〝銃は持っていない〟なんてウソまでついちゃって、何ともまあ健気なことだ。

 俺はそんなトロールが憐れになって、ひとまず両手の銃を下ろしてやった。

 ウェブリーMk.I。イングランド軍も御用達の俺の愛銃。木製の銃把にスラリとした銀の銃身、そしてダブルアクション式のシリンダーはどれも頬擦りしたくなるほど愛おしい。

 ああ――もう、我慢できねえ。


「お、お前が……お前が、本当にあの『死神』なのか? だとしたら何故おれを狙う?」

「何故ってェ? 殺し屋が人を殺すのに理由が要んのォ?」

「お、お前は誰かに雇われて殺しをしてるんじゃないのか? そうだろう?」

「まァ一応そういうことになってるケド、それが?」

「な、なら、おれを殺すよう依頼したのは誰だ? そいつを教えてくれたらいくらでも礼はする。お前の望むことで、おれに叶えられることなら何だって協力しよう。だから頼む、何でも言ってくれ」


 あんなに周囲から恐れられていた大男が、今やすっかり小さくなってヘコヘコと媚びを売っている。俺にはそれが愉快で、たまらなく愉快で、思わず腹を抱えて爆笑した。

 男もそれにつられたのか、初めは引き攣るように、やがてヤケクソのように大声で笑い出す。

 殺す者と殺される者。その二人が誰もいなくなった酒場で向き合い笑っているというのは、何ともまあシュールな光景だ。


「ヒャハハハ! いいねェ、あんた、話が分かる。さすがはこの街の親分さんだ」

「ああ、ああ、そうだろう? こう見えておれだって紳士さ。男に二言はねえ、何でも言ってくれ」

「オーケー、そうだな。それじゃあ早速頼みがあんだけど――お近づきの印に、ド派手に死んで下さいやァ」


 それまで大口を開けて笑っていた男の顔が、一瞬にして凍りついた。

 瞬間、俺は二挺のウェブリーを構え、大笑いしながら左右の銃を乱射する。

 血が迸り、銃声が鳴り響き、男はしばらく無様なダンスを踊ったあと、どうとその場に崩れ落ちた。


「あーーーっ、たまんねェ!!」


 それを見た俺は歓喜の雄叫びと共に両手を突き上げ、全弾撃ち尽くしたウェブリーをクルクル回して哄笑する。


「ヒャハハハハ! なァ、オイ、見ろよ、コイツの死に顔! こりゃもうケッサク――……ってあれ、誰もいねェや」


 と、そこでようやく我に返った俺は無人の店内を振り返り、何だか少し憮然とした。せっかく勇者サマがトロールを退治してやったってのに、まったく薄情な連中だ。

 俺は「あーあ」とため息をつきながら二挺の銃をパキッと折ると、コートのポケットをジャラジャラ言わせ、取り出した弾薬を補充した。

 すっかり熱くなった銃身は両脇のショルダーホルスターに収め、せっかくなのでバーテンのいなくなったカウンターに侵入する。そこからとりあえず高そうな酒を見繕って頂戴し、俺は追加報酬にヒヒヒと笑った。

 カウンターを出ながら口でコルクを引っこ抜き、グビクビと浴びるように酒を飲む。ああ、コイツァいい白ワインだ。産地はフランス? やっぱりネ。


 こんな場末の酒場にも探せばイイ酒はある。俺はゴキゲンな鼻歌を歌いながら出口を目指し、去り際に食べかけのチョコレートも回収した。

 そうして地上への階段を上がりながら、パキッとその甘さと苦さを堪能する。


「アー、やっぱ仕事のあとはコレに限るよなァ」



第4話


「――チョコレートが食べたいわ」


 と、突然そんなことを言い出した少女に、私は軽い眩暈を覚えた。

 きっと何かの悪い冗談だろう。そう思いながら広げた新聞を下ろし、神妙に相手の顔色を観察する。

 アパートの二階、テムズ川に面した書斎で向かいのソファに腰かけた少女は、白い両足を意味もなくぱたぱたと動かしながら夜空色の目でこちらを見ていた。

 私はその少女と視線が搗ち合ったところで新聞を戻し、再び目の前のつまらない記事へと視線を落とす。


「あ。無視するつもり? 依頼人が要望を伝えているのに」

「……私は殺し屋であって君の専属執事ではない」

「似たようなものよ。それが顧客と事業主の関係でしょう? わたくしはチョコレートが食べたいわ」

「私はチョコレートが嫌いだ」

「あら、どうして?」

「あれは人を堕落させる悪魔の食べ物だ。君も若いうちからあんなものに手を出すのはやめた方がいい」

「まあ。そうやって人の信仰心に訴えかけるつもり? だけどその手には乗らないわ」

「私はあくまで善意で言っている。それに最近のチョコレートには混ぜものが多い。中には量を多く見せかけるために粘土を混ぜているものもあると聞く。体を壊したくなかったら、今のうちに自制心を味方につけておくことだな」

「嘘よ、そんなの」

「君は新聞を読まないのか?」


 昨今のチョコレートブームに端を発する食品偽装問題については、度々新聞でも取り上げられている。その事実を知る私は彼女の無教養を責めるべく、顔を上げて新聞を鳴らした。

 私の依頼人であり、男爵家の元令嬢でもある少女――メアリーはそれを見てみるみる不愉快そうな顔をする。恐らく私の言わんとするところを察したのだろう、彼女はそれ以上しつこくチョコをねだることはなく、ぷいっと不機嫌にそっぽを向いた。


「昨日はどこへ行っていたの?」

「何の話だ?」

「夕べのことよ。貴方、わたくしに内緒でこっそり外出していたでしょう」

「ああ、夢の国の姫君を起こすのは申し訳ないと思ってね」

「人を子供扱いするのはやめて下さる?」

「君が子供でないなら一体何だ、妖精エルフか?」

「話を誤魔化そうとするのは、人を殺しに行っていたからね?」

「君は一体いつから私の妻になった?」


 まるで婚約者に浮気を疑われているような気分だ。私はそれをひどく不愉快に思い、眉をしかめて少女を睨み据えた。

 が、少女も負けてはいない。何とも気が強い娘だ。彼女は殺し屋にすごまれたところで怯みもしないどころか、逆に火のついたような目で睨み返してくる。


「わたくしは貴方の雇い主なのよ、ミスター・ジェルキンス。なら、自分が雇った相手のことをよく知っておきたいと思うのは当然でしょう?」

「それは確かにもっともな言い分だがね、ミス・ウォールデン。世の中には〝無知は幸い〟という言葉があるのをご存知かな?」

「ならわたくしはこう言うわ。〝わが民は無知のためにとりこにせられ、その尊き者は飢えて死に、そのもろもろの民はかわきによって衰えはてる〟」


 ――イザヤ書五章十三節。私は苦い顔をした。

 〝ああ言えばこう言う〟とは、まさにこの少女のためにあるような言葉だ。


「それで? 昨夜はどこのどなたの命を奪ってきたの?」

「……」

「別に貴方の悪事を暴いて世に広めようなんて思っていないわ。ただこれは……そう、念のための確認よ」

「私の殺し屋としての腕を疑っていると、素直にそう言ってくれた方がまだ可愛いがね」

「分かっているなら、何故答えを隠すの?」

「――忘れたんだ」

「え?」

「殺した相手のことは、忘れた。だから君のその問いには答えられない」


 これ以上彼女と押し問答することに疲れた私は、半ば自暴自棄になって再び新聞を広げた。

 この小さな依頼人が私のもとに現れてから、今日でちょうど一週間が経つ。その間私たちの関係はずっとこんな感じで、正直なところ私は彼女との共同生活に辟易していた。

 今の今まで悠々自適に――とまではいかないものの、この優良物件で気ままな一人暮らしを続けてきた私は、他人との距離の置き方が分からない。それも相手が好奇心旺盛な子供となれば尚更だ。


 少女はその無邪気で残酷な好奇心でもって私の素性を暴こうとし、私はそんな彼女に対する鬱憤を日ごと着実に積み重ねていた。

 このままではその鬱憤の塔が傾く。傾いたら最後、バランスを失った塔の行く末は――ただ崩壊あるのみ、だ。


「ちょっと待って。〝忘れた〟ってどういうこと?」

「言葉どおりの意味だ。私は自分が殺した相手のことはその日のうちに綺麗に忘れる。顔も、名前も、住所も性別も家族構成も何もかもだ」

「分からないわ。そんなことが」

「可能なのだよ。この稼業を続けるうちに身につけたすべだ。自分が殺した相手のことなど忘れてしまえば、夜ごと悪夢に怯える必要もないし、重い罪悪感に苦しむこともない。そうやって記憶の整理をして、今日まで自らを守ってきたんだ。だから君の質問には未来永劫答えられない」


 少女は初め、私の言葉を偽りだと受け取ったようだった。この男は奇妙奇天烈なことを言って自分を欺こうとしている――そう思ったに違いない。

 けれど私がそれ以上何の補足も弁解もしないのを見て、彼女の中の疑いは怒りに変わった。

 少なくとも、私にはそのように見えた。


「――ふざけないで!」


 世界が割れるような音を立て、彼女の膝に置かれていたティーカップが床に叩きつけられる。部屋の壁紙と意匠を揃えたダマスク柄のティーカップは、その一撃で呆気なく砕け散った。

 小さな男爵令嬢は肩を怒らせて立ち上がり、憤怒の表情で私を睨み据えている。その唇は激情に震え、心なしか金の髪も逆立って見えた。


「自分の罪を忘れた? そんなことが許されると思っているの!? 貴方は羊でも豚でもなく、人間ひとの血を啜って生きているのよ! それなのにその事実も責任も放り投げて、一人のうのうと生きているなんて!」

「お言葉はごもっともだが、話したところで君には分かるまい。第一、君はその人殺しに人殺しの依頼をしに来たのではなかったのか?」

「ええ、そうよ! だけどわたくしが貴方に殺して欲しいと言ったのは極悪非道の殺人鬼! 彼はその報いを受けるべくして受けるの! あの悪魔はそれだけ多くの罪を重ねてきたのだから!」


 なるほど。つまり私も等しく報いを受けるべきだとこの少女は言っているのか。

 だがそれはあまりにも一面的な考えだ。彼女が私の一体何を知っている?

 望まずに奈落へ突き落とされ、初めて人を殺めたときの恐怖。絶望。悲しみ。苦痛――。

 筆舌に尽くし難いその闇の重さを、この少女は私と同じかそれ以上に知っているとでも言うのだろうか?

 それらを誰とも分かち合えない孤独を、苦しみを――。


「なのに貴方は、自らの重ねた罪を背負いもせずに逃げて、隠れて……! そうして目も耳も塞いでしまえば、己の罪がなかったことになるとでも思っているの? これまで貴方に殺された人々の――!」

「――私だって好きでこんな仕事をしているわけではない! ただひたすらに強いられ、息を吸う度に肺が焼けるような苦しみの日々を送っているのだ! それ以上の罰がこの世にあるとでも言うのか!?」


 次に気がついたとき、なけなしの理性が支えていた鬱憤の塔は、ものの見事に崩壊していた。

 我に返ったときにはもう遅い。目の前では生まれたてのウサギのように弱く小さな子供が怯えた表情で立ち尽くしていて、部屋には沈黙が満ちている。


 ――こんなはずではなかった。


 私は自らの幼稚さに急き立てられ、立ち上がって新聞をたたんだ。

 そうして壁にかかっていたコートを手に取り、晩秋のロンドンに備える。更に首には襟巻きを巻き、茫然としている少女に背を向けて言った。


「出かけてくる。君は留守番をしているように」


 少女を振り返る勇気はない。

 私はそのまま部屋を出て、今や沈黙と後悔の牢獄と化したアパートをあとにした。


 ――分かっている。そろそろ潮時だと自分でも感じていたのだ。

 私は自らの記憶を操作できる。夜眠る前に、頭の中に二つの箱を用意して、そこに一日の記憶を振り分けることができるのだ。これは必要な記憶、これは不必要な記憶――といった具合に。


 けれどもそんな風に自分を騙して生きていくのもそろそろ限界だ。元々私は望んでこの道へ堕ちたわけではなかった。

 ただ必要に迫られて、恐れおののきながらも生きるために銃を取ったのだ。いや――今となっては〝生かすために〟と言った方が正確か。


 とにかく引き金を引くごとに罪を重ねるばかりのこの仕事を、これ以上続けられる自信が私にはなかった。

 初めて銃を握った瞬間から、心は解放の日を渇望している。もう私は十分やったのではないだろうか。これ以上苦しむ必要などないのではないだろうか――。

 ゆるやかな濁流のように渦巻くそんな思いを胸に抱えて、曇天のロンドンを歩く。うっすらと濡れた石畳をステッキが叩いた。その音がやけに耳に刺さる。


「いらっしゃいませ」


 川沿いのアパートから逃げ出した私はそのまま、いつものカフェへと足を運んだ。そこで六年前からやりとりをしている情報屋からの指示を受け取り、次の仕事に備えるためだ。

 私はその情報屋の顔を知らない。名前も知らない。ただいつもこうして手紙でのやりとりを交わすだけだ。

 思えば最初に人を撃ったあの日から、私はこの情報屋の奴隷だった。私は彼について知ることを許されず、知るための手立てすらなく、ただただ言われるがままに人を殺め、人間として最低限の暮らしを送れる程度の報酬を受け取って生きている。


 こんな生活はもううんざりだ。私は舌打ちしたいような気分でいつもの席に腰を下ろし、いつものアッサムティーを注文してから、いつもの場所へ手を滑らせた。

 そこにあるはずの情報屋からの手紙を指先の感覚だけで探し、しかしすぐに悪態をつく。なんということだ。今日も情報屋からの手紙はない。

 そんなことは何もこれが初めてではないが、彼は最低でも五日に一度は何らかの連絡を寄越す男だった。特に連絡事項がなければただの白紙が挟まれていることもあるし、〝何日後にまた連絡する〟といった一文が残されていることもある。


 その彼がかれこれもう一週間、何の音沙汰もない。私がこの店でメアリーと出会った翌日、『死神』に関する情報提供の依頼とささやかな抗議を綴った手紙をここへ挟んでいったにもかかわらず、だ。

 その手紙は翌日には回収されていたから情報屋が来たことは間違いないが、その後の彼の消息はようとして知れなかった。


 ――まさかとは思うが、彼の身に何かあったのだろうか?

 たとえばこの件が『死神』の耳に入って殺されたとか?


 しかしあれほど慎重で用心深い男が、そう簡単に息の根を止められたりするだろうか?

 いくら神出鬼没の『死神』と言えど、私が六年かけてもその正体の一端すら掴めずにいる相手をただちに抹殺できるとは思えない。


 私は今の自分を取り巻く状況と形のない不安に焦燥を覚えながら、その日も一枚の手紙を残して帰った。

 その手紙に綴ったのは一文だけだ。


『名前だけでもいい、やつに関する情報があるならどんな些細なことでも教えてくれ』


 そして一刻も早くこの憂鬱な生に終止符を。



第5話


 透き通るような少年たちの歌声が止み、講堂いっぱいの拍手が捧げられた。

 讃美歌五一一番。パイプオルガンの演奏に合わせ、聖歌隊が退場していく。

 今日の礼拝はこれで終わりだ。最後に司祭様と共に皆が祈りの言葉を捧げ、わたくしは今日もまた主の恵みに感謝する。


 けれども、心は晴れなかった。


 教会からの帰り道。わたくしは杖をつきながら歩くジェルキンス氏の後ろを数歩遅れてついていく。

 すらりと背が高く、足の長い彼は気を抜くとどんどん先へ行ってしまって、目印にしている黒い山高帽も、ロンドンを行き交う紳士たちのそれに紛れてしまいそうだった。

 通りには何台もの馬車が行き交い、雑踏と喧騒が曇天の下を埋めている。十一月のロンドンは寒い。わたくしは故郷の屋敷から唯一持ち出せた財産の一つ、テンの毛皮のマフに両手を入れながら、うつむきがちに街を行く。


 日曜日。

 ジェルキンス氏との口論から一夜が明けた。

 あれ以来わたくしとジェルキンス氏はほとんど口をきいていない。昨日も彼は夕方頃アパートへ帰ってきて、何と声をかけようか迷っているわたくしを一瞥すると、何も言わずに寝室へ引き取ってしまった。


 だから、もしかしたら今日は礼拝へ連れていってもらえないかもしれない、と思っていたのだ。わたくしは昨日、己の無知と幼さゆえに放ってしまった残酷な言葉について主に懺悔したい気持ちでいっぱいだったから、もし今日教会へ行けなかったらどうしようとそればかりが気がかりだった。

 けれどジェルキンス氏は今朝になると、まるでそうするのが当然だと言うように聖書を持ち、わたくしを教会へ促したのだ。

 彼は殺し屋なんて背徳的な職業に従事しながら、意外と信心深いらしい。礼拝中に盗み見た横顔もそれは真剣で、一途に主の御救いを求めているように見えた。


 他にもジェルキンス氏について、ここ数日の間に分かったことがいくつかある。

 まず、チョコレートが嫌いということ。紅茶はアッサムが好きということ。料理があまり上手ではないということ。どうやら望んで殺し屋をしているわけではないということ。

 そして銃を握っているとき以外は、努めて紳士であろうとしていること――。


 そんな彼に、わたくしはなんと愚かな言葉をかけてしまったのだろう。初めてあのカフェで出会った日、彼はわたくしにこう言った。わたくしの両親が殺された事件について、自分が恨まれる筋合いはないと。

 わたくしもそれは分かっているつもりでいた。けれど本心ではまったく理解していなかった。


 彼は殺し屋。

 わたくしの暖かな家、優しかった家族、約束されていた未来――それらすべてを奪ったあの悪魔と同じ、殺し屋。


 そんな思いが、ティーカップの底にしつこく残るシミのようにこびりついていたのだ。

 だから彼にもまた憎しみと猜疑の眼差しを向け、己の罪を恐れ苦しむその心を叩き割ってしまった――昨日、わたくしが幼稚な癇癪と共に床へ叩きつけたあのカップのように。


 けれど今のわたくしは、彼にかけたあの言葉が間違いだったと気づいている。

 それを彼に謝りたいのに、何と声をかければいいのか分からない。


 子供だったのはわたくしの方だわ。

 既に失った自らの地位を鼻にかけ、ちっぽけな己の価値観を得意になって振り回していた。

 そのくせその独善の刃で傷つけた相手に対してろくに謝罪もできないだなんて。


 ああ、惨めで泣きたくなる。

 わたくしはいつからこんな不誠実で暗愚な人間に成り下がったのだろう――?


「メアリー」


 そのとき突然名前を呼ばれて、わたくしの心臓は跳び上がった。

 何だか信じられないものを聞いたような気分で顔を上げると、そこにはこちらを向いて立ち止まったジェルキンス氏の姿がある。


「あの店に少し用がある」


 そう言って彼が杖の先を向けたのは、ロンドンの大通りに面する小商店だった。

 入り口には慎ましやかな木の吊り看板が下がっていて、そこが雑貨屋であることを教えてくれる。その店はテムズ川に架かる橋のすぐ手前にあり、わたくしは器用に馬車の間を縫って歩き出した彼の背中を慌てて追った。


 小窓のついた木製のドアをくぐれば、店内には軽快なカウベルの音が鳴り響く。

 途端にむっと漂ってきた甘い香りは香水だろうか? 少し暗めの照明が下がった店内は狭く、ちょっとした日用品から帽子、襟巻きなどの衣類、それから調理用の油まで、ありとあらゆるものが取り揃えられている。


 これじゃあ雑貨屋というより何でも屋だわ。わたくしが奇異と好奇の目でそんな店内を眺め回していると、先に店へ入ったジェルキンス氏が店主へ向けて帽子を上げた。

 どうやらジェルキンス氏はこの店の常連のようだ。簡単な紳士の挨拶を済ませた彼はそのまま、迷いのない足取りですたすたと奥へ歩いていく。


 まるで小さな都市のように雑然とした店内にあっても、自分の目当ての品がどの棚に置かれているのか、ジェルキンス氏にはそれが分かるらしかった。

 けれど土地勘・・・がないわたくしはその場から動くことがためらわれて、彼の買い物が済むまで大人しく待つことにする。

 庶民の暮らしというものに未だ馴染みのないわたくしには、店内を飾るいくつもの品々はどれも未知の塊に見えた。

 天井から吊られてキラキラ光っているあれは何だろう? 向こうの壁には見たこともない異国の織物がかかっているし、目の前の机には夜になったら動き出しそうなくらい精巧なフランス人形が並んでいる――。


「行くぞ」


 そのフランス人形を手に取ってみようかどうか、わたくしが真剣に悩んでいると、唐突に声が降ってきた。

 驚いたわたくしは小さく肩を跳ねさせて、伸ばしかけていた手を引っ込める。

 そうして反射的に振り向けば、そこには紙袋を小脇に抱えた紳士がいた。

 彼は突然のことに慌てふためくわたくしを訝るように見下ろすと、そのわたくしと目の前のフランス人形とを見比べる。


「欲しいのか?」

「い、いいえ!」

「それは良かった。私はフランスと名のつくものが嫌いでね」


 そう言って口の端だけで不器用に笑うと、彼は店をあとにした。

 わたくしはそんな彼の態度に少し驚き、数瞬その場に立ち尽くしてから、ようやく我に返って店を飛び出していく。


「あ、あの!」


 ――昨日はごめんなさい。

 今ならそう言える気がした。

 ジェルキンス氏は雑貨屋を出てすぐのところに佇んでいて、店を出てきたわたくしに一瞥をくれる。


 それから何を思ったか、彼は店で買った荷物の中に手を入れると、そこから取り出した小さな紙の包みを差し出した。

 わたくしはそれを受け取り、おずおずと目を落としてみる。

 そこには最先端の印刷技術によって美しく刷られた――『Chocolate』の文字。


「食べたかったんだろう?」


 驚きのあまり言葉を失い、茫然と立ち尽くしてしまったわたくしに、ジェルキンス氏はちょっとだけ決まりが悪そうに言った。

 わたくしはそんな彼に返す言葉が見つからず、もう一度手の中のチョコレートに目を落とす。


 それから黙り込むことしばし。

 やっとのことでわたくしは言った。


「……わたくし、チョコレートはミルクチョコレートが好きなの」

「贅沢を言うな。あのアパートが貴族の屋敷に見えるのか?」


 呆れたように彼が言う。もちろん彼が買ってくれたそれは、ごくごく普通のチョコレートだ。

 けれどもわたくしにはそれが嬉しくて――たまらなく嬉しくて、つい彼をからかいたくなってしまった。

 もちろん彼もそれを分かっている。だから余計な冗談を言うのはそこまでにして、わたくしは相変わらず気難しい顔でこちらを見ている紳士に笑いかけた。


「ありがとう、ミスター・ジェルキンス。大切に食べるわ」

「ヘンリーでいい」


 やはり決まりが悪そうに言って、彼は横を向く。そのダークグリーンの瞳が忙しなく泳いでいるのを見て、わたくしは更に吹き出したくなってしまった。


「分かった。ありがとう、ヘンリー」

「……。そんなに大事に抱えると溶けるぞ」

「いいの」

「良くないだろう」

「いいの!」


 貂皮のマフは小脇に抱えて、わたくしは彩り美しいチョコレートの包みを抱き締める。彼は――ヘンリーはそんなわたくしを見てますます呆れ顔をし、けれどもわたくしの足元に段差があるのを見て取って、すっと左手を差し出した。

 わたくしも自然とその手を取る。革の手袋を嵌めたヘンリーの手はしかし、温かかった。

 わたくしたちはそのまま歩き出す。

 彼は右手にステッキを、わたくしは左手にチョコレートを持ったまま。


「ねえ、ヘンリー」

「何だ?」

「昨日はごめんなさい」

「いや。あれは私も悪かった」

「でもね、わたくし一つだけ許せないことがあるの」

「というと?」

「貴方、フランスのお菓子を見たことがないでしょう? あれは芸術よ」

「生憎私にはモナ・リザを食べる趣味はなくてね」

「……貴方って本当に減らず口だわ」

「君ほどじゃないさ」



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